志位和夫 日本共産党

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談話・記者会見

2023年7月26日(水)

『日本共産党の百年』の発表にあたって

志位委員長の会見


 日本共産党の志位和夫委員長が25日の『日本共産党の百年』発表記者会見で行った発言は次の通りです。

党創立百年の到達点を踏まえて、百年の党史の全体を振り返り、叙述した

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(写真)『日本共産党の百年』

 本日、『日本共産党の百年』を発表します。

 今回の党史の編纂(へんさん)にあたっては、昨年9月に常任幹部会のもとに、党史編纂小委員会を設置し、基本構想をたて、昨年12月から編纂作業を本格的に進めました。7月10日の常任幹部会で確認・決定し、常任幹部会の責任で発表します。

 わが党は、2003年に『日本共産党の八十年』を発表しており、20年ぶりの党史の発表となります。『百年』史は『八十年』史の叙述が土台になっていますが、それは『八十年』史に、最近の20年の歴史を、ただつけくわえたというものではありません。党創立百年の地点で、わが党が到達した政治的・理論的・組織的到達点を踏まえて、百年の党史の全体を振り返り、叙述するものとなっています。

 分量的には、『百年』史は、『八十年』史とほぼ同じ分量になるようにしました。今日は、タブロイド判をお渡ししますが、製本したものを10月には国民のみなさんにお届けできるようにいたします。

歴史への貢献と自己分析性――百年に及ぶ一貫した党史を持つ党

 『百年』史では、日本共産党が、この1世紀に、日本と世界の発展にとってどういう役割を果たしたかを克明に明らかにしています。すなわち『百年』史は、狭くわが党の歴史というだけでなく、この1世紀にわたる日本の政治史、世界史についても、その基本点については叙述を行い、そのなかで日本共産党がどういう役割を果たしたかをのべるという構成にしています。そうした歴史の文脈でとらえたとき、私たちは、日本共産党の百年は、大局において、平和、民主主義、人権、暮らしなど、さまざまな面で、国民の苦難を軽減し、日本の社会進歩に貢献し、世界史の本流に立ってそれを促進した歴史ということが言えると確信しており、『百年』史においてもそうした確信を随所で表明しています。

 同時に、わが党の歴史のなかには、さまざまな誤り、時には重大な誤りがあります。さらに歴史的な制約もあります。わが党の歴史は、それらに事実と道理にもとづいて誠実に向き合い、科学的社会主義を土台としてつねに自己改革を続けてきた歴史であります。『百年』史は、そうした自己改革の足跡を、可能な限り率直に明記するものとなっています。すなわち『百年』史では、わが党の過去の欠陥と歴史的制約について、何ものも恐れることのない科学的精神にもとづいて、国民の前に明らかにしています。わが党に対して「無謬(むびゅう)主義の党」――誤りを一切認めない党という非難がありますが、それがいかに事実に反するものであるかは、『百年』史をご一読いただければお分かりいただけると思います。

 世界には、百年を超える歴史を持つ党は数多く存在します。しかし歴史への貢献と、自己分析性の両面で、百年に及ぶ一貫した党史を持つことができる党は、世界を見渡してもそうはないということがいえるのではないかと思います。

生きた攻防のプロセスとしての歴史を明らかに

 『百年』史の全体を通じて、私たちがもっとも心がけたのは、わが党が、古い政治にしがみつこうという勢力から、つねにさまざまな非難や攻撃にさらされ、それを打ち破りながら自らの成長をはかっていく、生きた攻防のプロセスとしての歴史を明らかにすることでした。

 わが党の百年を振り返ってみて、党が躍進した時期も、困難に直面した時期もさまざまですが、党にとって順風満帆な時期はひと時としてありません。つねにわが党の前進を恐れる勢力からの非難や攻撃にさらされ、それとのたたかいで自らを鍛え、成長させながら、新たな時代を開く――私たちはこれを「階級闘争の弁証法」=「政治対決の弁証法」と呼んでいますが――、そうした開拓と苦闘の百年でした。『百年』史では、そのことが浮き彫りになるような構成と叙述となるように努めました。

 『百年』史は、5章だてになっていますが、党史を大きく区分すると三つの時期に区分することができます。第一の時期は、戦前のたたかい(1922~45年)で、第1章をあてています。第二の時期は、戦後の十数年(1945~61年)で、第2章をあてています。第三の時期は、1961年に綱領路線を確立して以降の60年余で、これには20年ごとの区切りを入れ、第3章(1960~70年代)、第4章(1980~90年代)、第5章(2000年代~今日)の三つの章をあてています。節目、節目で、「政治対決の弁証法」という基本的な観点にもとづく総括的な記述を行い、各論をすすめるというように叙述を工夫しました。

戦前の不屈の活動――迫害や弾圧に抗しての、成長と発展のための努力

戦前、不屈にたたかった女性党員

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伊藤千代子
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飯島喜美
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田中サガヨ
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高島満兎

 第1章「日本共産党の創立と戦前の不屈の活動」についてのべます。

 戦前論では、党史を三つの時期に区分しました。すなわち「党創立と初期の活動」(1922~27年)、「“ここに日本共産党あり”の旗を掲げて」(27~35年)、「次の時代を準備する不屈のたたかい」(35~45年)であります。

 日本共産党の誕生は、当時の日本社会の発展の最大の障害物であった天皇絶対の専制政治の変革にとりくみ、侵略戦争反対と国民主権の実現に不屈にとりくむ革命政党が出現したという歴史的意義をもつものでした。それだけに、わが党の存在と活動は、天皇制権力から強い恐怖と警戒をもって迎えられました。

 わが党の戦前史は、党創立のはじめから天皇制権力によるくりかえしの迫害や弾圧をうけ、それに命がけで抗しながら、自らの路線、理論、運動、組織を発展させていった、文字通りの開拓と苦闘の歴史であります。

 『百年』史の第1章では、わが党がこの苦しい時代の節々でどのような主張を掲げてたたかったか、どのような迫害や弾圧に遭遇したか、それに抗してどのような成長と発展のための努力を続けたかが、生き生きと浮き彫りとなるように叙述しています。

 たびたびの大弾圧にもかかわらず、党機関紙「赤旗」の発行部数は最大約7千部にのぼり、それは“回し読み”されて発行部数よりはるかに多くの読者をもっていました。労働運動や農民運動などでの大きな足跡とともに、その知的・文化的影響力は、「北斗七星」にたとえられたような大きなものがありました。残虐な弾圧によって党中央の機能が壊された後も、各地での活動、獄中と法廷でのたたかいは続き、戦後の新しい時代を準備する営みが行われました。『百年』史では、これらの事実を克明に明らかにしています。

 戦前、わが党が置かれた状態は苦難に満ちたものでしたが、その主張と活動は、戦後の日本国憲法の「国民主権」「基本的人権」「恒久平和」などの諸原則として大きな実を結んだこと、それは今日、アジア諸国民との平和・友好を進める土台となっていることを強調したいと思います。

 『百年』史の戦前論で力を入れて描いたものの一つは、日本共産党に参加した女性たちの不屈の青春についてであります。当時、女性の政党加入が禁止されるもとで、日本共産党は、女性が参加し、活動したただ一つの政党でした。さまざまな時代的制約があったとはいえ、日本共産党は、女性差別に反対し、女性の人権と尊厳を大切にする点では、当時の政党のなかで抜きんでた立場にあったといえます。入党した女性たちは、党中央部も含めて責任ある部署をになうなど諸分野で活躍しました。少なくない若い女性の先輩たちが迫害で命を落としました。そうした先輩たちをもつことは私たちの大きな誇りであります。

 当時、天皇制権力は、党の姿をゆがめ、「共産党は女性を踏み台にした非人間的な党」といった攻撃を行い、同様の攻撃は戦後も繰り返されてきましたが、『百年』史では、そうした攻撃はまったく事実に反し、成り立つものではないとのきっぱりした反論を行いました。

戦後の十数年――党分裂の危機をのりこえ、自主独立と綱領路線を打ち立てる

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(写真)日本共産党綱領を全員一致で採択した第8回党大会=1961年7月

 第2章「戦後の十数年と日本共産党」についてのべます。

 この章の特徴は、日本軍国主義の敗北によって、わが党が合法政党としての地位を獲得した1945年から、綱領路線を確立した1961年までの時期を、一つの章にまとめたことにあります。こうしたまとめ方をした理由は、こうしたくくり方をすることで、この時代の「たたかいの弁証法」が鮮やかに浮き彫りになると考えたからであります。

 1945年、再建された党が、米軍占領下で果たした役割は、主権在民の一貫した主張、全面講和・外国軍の撤退・真の独立の主張、労働者と国民の暮らしを守る闘争、1100万人の人々が参加した民主主義擁護同盟という統一戦線など、戦略路線の未確立などの歴史的制約をもちつつも、主たる側面は積極的で先駆的なものでした。日本共産党以外の政党が、占領政策推進の「オール与党」となるもとで、1949年の総選挙で日本共産党が大躍進したことも特筆すべきであります。

 こうした党の前進を恐れ、立ちふさがってきたのが、アメリカ占領軍でした。日本共産党を「民主主義の破壊者」として攻撃し、党と労働組合を取り締まりの対象とし、松川事件その他の謀略事件を党と労働組合が引き起こしたかのように宣伝し、無法な弾圧を行いました。さらに、1950年、マッカーサーは、わが党を事実上の非合法状態におき、日本の軍事基地化をすすめていきました。

 この危機のときに、わが党の前進をより深刻な形で脅かす相手が、当時の党にとっては思いもかけないところから現れました。スターリンが支配するソ連による謀略的な干渉であります。この干渉に呼応・内通する人々は、占領軍による弾圧を絶好の機会として利用し、1950年、中央委員会を解体し、党を分裂させるという一大暴挙を行いました。党の方針にそむいて、分派によって武装闘争方針が持ち込まれたことは、党に甚大な損害をもたらしました。私たちが今日、「五〇年問題」と呼んでいる、わが党の百年の歴史のなかでも最も重大な危機であります。

 『百年』史では、これらの謀略的干渉作戦の全貌が、ソ連解体後に明らかになった資料、その後の研究も踏まえて、深く明らかにされています。そして、党が、この深刻な危機をのりこえて、1958年の第7回党大会で、自主独立の路線――相手がどんな大国でも言いなりにならず日本の進路は自分で決めるという路線を確立するとともに、1961年の第8回党大会で綱領路線――国民多数の合意で異常な「アメリカ言いなり」「財界中心」の政治を根本からただす民主主義革命を行い、さらに国民多数の合意で社会主義にすすむという大方針を決めた過程を明らかにしています。

 『百年』史では、1955年から58年までの時期――党が分裂を克服し、自主独立の路線と綱領路線を形づくっていく時期を、「党史上のきわめて重要な時期」として新たに光をあて、立ち入って叙述しています。いわば危機と混沌(こんとん)ともいうべき状態から、新しい路線が生まれてきたのが、この時期でありました。『百年』史がここでのべている「武装闘争方針の否定こそが六一年綱領を確立する出発点となったのです」という規定づけに注目していただきたいと思います。

 この時期を党史で叙述するとき、党分裂という最悪の危機を乗り越え、自主独立の路線と綱領路線という未来ある路線を打ち立てていった、先人たちの理性と勇気に、私は、深い敬意を覚えざるをえません。そして、ここにも、深刻な危機と正面から立ち向かうたたかいが、新しいものを生みだすという“波瀾(はらん)万丈”ともいうべき「たたかいの弁証法」が働いていることを強調したいと思います。

60~70年代――「第一の躍進」と反共キャンペーンとのたたかい

 第3章から第5章までの三つの章は、1961年に綱領路線を確立して以降の60年余のたたかいをのべています。

 正確な綱領路線を確立すれば、一路前進というわけにはいきません。この60年余に、日本共産党は、3回にわたって国政選挙での躍進を経験していますが、そのたびに日本共産党の躍進を恐れた支配勢力は、集中的な日本共産党攻撃と政界の反動的再編でこたえ、それとのたたかいで党は鍛えられながら、新たな前進と成長をかちとる――まさに「政治対決の弁証法」と呼ぶべきたたかいの連続でした。

 『百年』史の第3章では1960~70年代のたたかいについてのべています。

 60年代、綱領路線を確立した党は、各分野での開拓的努力にとりくんでいきます。革新勢力の統一行動の発展、革新自治体の発展、本格的な政策活動、党建設の開拓的な努力へのとりくみが叙述されています。

 他方、この時期に、わが党は、ソ連、中国・毛沢東派による激しい干渉攻撃に遭遇し、それを正面から打ち破り、自主独立の路線を確固たるものに発展させていきます。無法な覇権主義に対して、わが党は、ソ連、中国ともに誤りを認めさせるという決着をつけました。この二つの大国に対して、誤りを認めさせた党は、世界に他にありません。

 これらの努力が、60年末から70年代いっぱいまで続いた「第一の躍進」に実っていきます。この躍進の重要な特徴は、60年代に粘り強く続けられた党建設の飛躍的発展という強固な土台の上に実現した躍進だったことにありました。

 『百年』史では、この躍進に対して、体制的な危機感を感じ取った支配勢力が、70年代前半から“日本共産党封じ込め”の戦略をねり、「自由社会を守れ」のスローガンのもと、わが党を「暴力と独裁」の党とする反共キャンペーンを開始したこと、それに真正面から対決し、76年の第13回臨時大会での「自由と民主主義の宣言」の採択など、科学的社会主義にもとづく党の理論的・政策的立場を発展させたこと、革新勢力の共同の前進のために力をつくしたことなど、党の奮闘がのべられています。この時期に、党がかちとった一連の理論的・政策的発展は、今日の綱領路線につながる重要な財産となっていきました。

80~90年代――日本共産党排除の「オール与党」体制と「第二の躍進」

 『百年』史の第4章では1980~90年代のたたかいについてのべています。

 80年代、国政では、社会党が「社公合意」によって反共路線に転落し、日本共産党をのぞく「オール与党」体制がつくられ、日本共産党以外の野党は、すべて対米従属と財界中心という自民党政治の枠組みのなかに組み込まれるという事態が起こりました。

 この事態を前にして、わが党は、「日本共産党と無党派の人々の共同」という新しい統一戦線運動を提唱し、81年、全国革新懇が結成されました。革新懇運動は、その後、あらゆる統一戦線運動を草の根から支える土台として、今日にいたるまで重要な役割を果たしていくことになります。

 “日本共産党封じ込め”の「オール与党」体制のもとで、80年代、わが党は国政選挙で一進一退を余儀なくされますが、この体制によって苦しめられたのはわが党だけではなく、国民全体でした。臨調「行革」の名で、新自由主義の路線が開始され、暮らしの破壊と格差拡大が深刻になりました。「戦後政治の総決算」が唱えられ日米軍事同盟の侵略的強化が進められました。『百年』史では、この時期から開始された新自由主義への批判を補強するなど、現在につながる自民党政治の悪政について系統的に叙述しました。

 80年代末、金権腐敗事件とともに、「オール与党」体制の矛盾が噴き出し、日本共産党の躍進の予兆が起こってきます。中国・天安門事件、東欧・ソ連崩壊を利用した「社会主義崩壊」論、「体制選択論」攻撃が行われ、躍進は現実のものとなりませんでしたが、支配勢力は、「オール与党」体制のもろさを痛感することになりました。支配勢力は、新しい“日本共産党封じ込め”の戦略を発動していきます。

 まず発動されたのは、90年代前半、「自民か、非自民か」という偽りの対決構図をふりまき、日本共産党を選択肢の外に排除しようという動きでした。しかし、この作戦は、「非自民」勢力が、にわか仕立ての寄せ集めだったために、まもなく自壊して失敗に終わることになります。

 その後、自民党政治への対決で筋を貫いてきた日本共産党への支持と期待が急速に広がり、90年代後半から「第二の躍進」が起こりました。この躍進は、「第一の躍進」を大きく上回る党史上最高の躍進となりました。この躍進は、私たちの予想を超える形で起こりましたが、党の自力が躍進についていっていないという弱点を私たちは痛感しました。

2000年代――最大・最悪の逆風、「第三の躍進」と市民と野党の共闘への挑戦

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(写真)党創立100周年で記念講演する志位和夫委員長=昨年9月17日、党本部

 『百年』史の第5章でのべられている2000年代~今日は、新しい部分であり、力を入れて叙述した部分であります。この直近の20年は、「政治対決の弁証法」が、最も鋭い形で現れた時期ともなりました。

 2000年代は、90年代後半の日本共産党の躍進に強い危機感を抱いた支配勢力が、まず公明党・創価学会などを使った大規模な謀略的反共攻撃を行うことでスタートしました。続いて財界主導の反動的政界再編が進められ、「自民か、民主か」――「二大政党の政権選択論」を押し付け、日本共産党を有権者の選択肢から排除する一大反共作戦が展開されました。それは、わが党にとって、61年綱領確定以後、最大・最悪の逆風として作用し、党は、国政選挙で苦しいたたかいの連続を余儀なくされました。

 こうした新たな困難に直面して、わが党は、2000年の第22回党大会で「『日本改革』の提案」を豊かに発展させるとともに、党の組織と運営の民主主義的な性格をいっそう明瞭にする党規約の改定を行いました。04年の第23回党大会で、党綱領改定を行い、日本改革論、世界論、未来社会論の全体にわたって21世紀の党の新たな羅針盤を打ち立てました。わが党は、自民党政治の転換の旗を掲げ、米国によるアフガニスタン報復戦争、イラク侵略戦争、自衛隊の海外派兵に反対を貫くとともに、新自由主義の暴走と対決し、平和と暮らしを擁護するたたかいをあらゆる分野で組織して奮闘しました。

 その後、自民党政権の衰退と民主党政権の誕生、続いて民主党政権の自民党政治への屈服と矛盾の激化という、政治の大きな激動が起こりましたが、それは、なかなか党の躍進に結びつきませんでした。2010年の参院選で、わが党は深刻な後退を経験しました。後退に直面して、私たちは、内外の声に真剣に学びながら、政治的対応、組織的問題の両面で根本的な選挙総括を行い、「国民の探求にこたえ、展望を示す」という政策論、「綱領・古典の連続教室」などの党建設の新しい探究を進めました。

 こうした全党の努力が実ったのが、2013年から開始された「第三の躍進」でした。この政治的躍進を力にして、党は、戦争法(安保法制)反対の国民的闘争から生まれた野党共闘を願う国民の声にこたえて、党の歴史のうえでもかつてない統一戦線――市民と野党の共闘にふみだしていくことになります。共闘は2016年、19年の参院選では、重要な成果をおさめます。しかし、2017年、21年の総選挙では、支配勢力の激しい攻撃に直面し、共闘は一定の成果をあげましたが、党自身は悔しい後退を喫しました。この攻撃は、日本共産党が参加する統一戦線、ましてや連合政権などは、万が一にも許してはならないという支配勢力の強い恐怖と危機感に突き動かされたものでした。

 わが党は、2020年の第28回党大会で綱領一部改定を行いました。この一部改定の作業は、中国に対する綱領上の規定の見直しから始まったものでしたが、それは世界論と未来社会論など綱領全体に新たな視野を開く重要な改定となりました。

 『百年』史では、現在のたたかいの到達点を、次のようにのべています。

 「二〇一〇年代中頃の『第三の躍進』から今日までの経過は、党が躍進した力を背景に、市民と野党の共闘の態勢を構築し、一連の国政選挙、とくに二一年の総選挙で政治的大攻勢をかけたことにたいして、支配勢力が激しい反共闘、反日本共産党の攻撃でこたえ、それとのたたかいで新しい前途を開くことに挑戦するという、激しい攻防のプロセスとなりました。この攻防のプロセスは決着がついておらず、現在進行形で続いています」(55ページ)

 この攻防のプロセスがどう決着するにせよ、日本共産党が、わが国の立憲主義と民主主義の危機にさいして、多くの方々とともに、市民と野党の共闘にとりくんできたことは、日本共産党の党史に、さらには日本の政治史に党の積極的努力の一ページとして刻まれることになると確信するものです。

 そしてこの攻防のプロセスを前に進め、日本の進歩的未来を実現する最大の力は、日本共産党の躍進であることを肝に銘じて奮闘することを表明するものです。

『百年』史を概括し、未来に向けて――三つの点について

 『百年』史を概括し、未来に向けていくつかの点を強調したいと思います。

 第一は、わが党の歴史は、つねに古い政治にしがみつく勢力による攻撃とのたたかいの歴史であり、逆流とのたたかいのなかで、自らを鍛え、自らの成長をはかり、新しい政治をつくりだしていく歴史であるということです。

 わが党に対して、百年の全体を通じて続けられてきた攻撃は、その歴史が証明しているように、私たちが、平和・民主主義・人権・暮らしのために、国民とともに不屈にたたかい、それを阻むゆがんだ政治を「もとから変える」ことを大方針に掲げている革命政党であることの証しであります。わが党にとってそれは名誉であり、逆流を打ち破るたたかいのなかでこそ新しい政治への道は開かれるという確信をもって未来にのぞみたいと思います。

 第二は、61年綱領確定後の60年余、自民党政治はその行き詰まりをいよいよ深刻にしているということであります。

 とくに『百年』史に新たに詳しく叙述したように、1980年代以来の新自由主義の経済政策のもとで、賃金は下がり続け、経済成長が止まり、少子化が進み、日本の経済社会の閉塞(へいそく)はきわめて深刻であります。日米軍事同盟の止めどもない強化によって、憲法9条を壊す暴走が続き、日本は世界とアジアの平和を危うくする震源地にされています。G7諸国のなかでも人々の人権、人々の尊厳がこんなに粗末にされている国はほかに見当たりません。

 いま日本は、新しい日本への変革を強く求めています。

 第三に、そのためには、新しい日本をつくる国民の多数の合意が必要であり、そうした国民多数の合意をつくるためには、社会進歩を先頭に立って進める強く大きな日本共産党がどうしても必要であるということです。

 『百年』史は、「むすび」の部分で次のようにのべています。

 「六一年綱領確定以後の激しい攻防のプロセスのなかで支配勢力による攻撃と正面から切り結び、党は鍛えられ、理論的・政治的に新しい発展をかちとり、組織的にも時代にそくした成長と発展のための努力を続けてきました。同時に、『社公合意』以来の四十年あまりにわたった『日本共産党をのぞく』壁、くりかえされる各種の反共攻撃は、党建設の前進にとっての大きな障害になりました。全国各地で奮闘が続けられてきたものの、党はなお長期にわたる党勢の後退から前進に転ずることに成功していません。ここに党の最大の弱点があり、党の現状は、いま抜本的な前進に転じなければ情勢が求める任務を果たせなくなる危機に直面しています。いま党は、この弱点を根本的に打開し、強く大きな党をつくる事業、とりわけ世代的継承――党の事業を若い世代に継承するとりくみに、あらたな決意でとりくんでいます」(56ページ)

 この決意を重ねて強調したいと思います。

 『日本共産党の百年』が、わが党の真実の姿を多くの方々に知っていただくうえで、また、日本と世界の進歩的未来を開くうえで、広く読まれることを願ってやみません。