2006年8月24日(木)「しんぶん赤旗」

戦前の領土拡張主義の歴史をどうとらえるか

CS放送「各党はいま」 志位委員長が語る


 日本共産党の志位和夫委員長は、二十二日放送のCS放送・朝日ニュースター「各党はいま」に出演し、朝日新聞の本田優編集委員の質問に答えました。首相の靖国参拝問題、根底にある歴史認識についての部分(要旨)を紹介します。


首相の靖国神社参拝――政権党の責任が問われる

 本田 八月十五日に小泉首相が六回目の参拝をしました。この問題はどこに重要なポイントがありますか。

 志位 今回の小泉首相の行動は、みずからの行為がもたらした日本外交のゆきづまりへの一片の反省もない。残り任期はわずかだ、「あとは野となれ山となれ」という無責任のきわみの行動だと思います。

 問題の核心は、靖国神社という存在がどういうものかというところにある。首相は「戦没者への追悼の誠をささげるんだ」といいますが、靖国神社は戦没者の追悼の施設ではありません。天皇のために「名誉の戦死」をとげた人たちを顕彰する――ほめたたえる施設なのです。追悼と顕彰は違います。

 そして、過去の戦争は「正義の戦争」だった、「アジア解放の戦争」「自衛の戦争」だったという百八十度歴史をゆがめた戦争観に立っている神社です。ですからここに首相が参拝することは、日本政府として神社のこの立場に認知を与えることになる。ここに問題の核心があると、私たちは批判をしてきました。

 しかし、ついに終戦記念日の参拝という、ことはここまでいたった。これは、自民党という政権党の責任が問われてきます。だれも首相の暴走を止めることができない。いさめることすらできない。三人の総裁候補も、だれも正面から批判しない。自民党自身が政権党としての資質が問われているのです。

戦前史――日本はいったいどこから道を誤ったか

 本田 靖国参拝問題は、根底の歴史問題について広範な議論を巻き起こしたともいえるのではないでしょうか。戦前の大きな歴史の流れについて、どういう歴史観をもっているかということが非常に大事だと思いますが、日本はいったいどこから道を誤ったとみていますか。

 志位 日本は明治維新にいたる過程で、世界の列強から力をもっていわゆる「不平等条約」をおしつけられて開国に踏み切ります。その後とった路線は、こんどはアジアの弱い相手にたいして、同じやり方で「不平等条約」を押しつけるというものでした。まずねらわれたのが朝鮮でした。一八七六年に「日朝修好条規」を結び、朝鮮を無理やり開国させるわけですが、これは文字どおりの軍事力の威嚇のもとで結ばれたもので、日本にたいする「不平等条約」をさらに悪くしたものを朝鮮に押しつけるというものでした。

 そういう形での膨張主義が、あからさまな帝国主義・領土拡張主義にエスカレートするひとつの大きな節目になってくるのが、日清戦争、日露戦争だと思います。「日清・日露の戦争までは、日本は近代化を目指して、正しい道をすすんでいたのだ」という戦争肯定史観がありますが、この二つの戦争の実態は、とてもそんな言い分は通用しない、あからさまな領土拡張主義そのものでした。

 日清戦争(一八九四年―九五年)で何が起こったかというと、二つ重要な点があります。一つは、台湾と遼東半島を植民地化したことです。これは初めての本格的な領土の拡張でした(遼東半島は「三国干渉」によって清に返還)。もう一つは、日本の朝鮮支配に反対する中心人物だった朝鮮の王妃・閔妃(びんひ)を、日本の公使の命令で殺害したことです。こうした無法なやり方で、朝鮮にたいする干渉を広げていったのです。

 それから、日露戦争(一九〇四年―〇五年)は、まさに韓国(朝鮮は一八九七年に国名を「大韓帝国」とあらためている)を強奪することを目的とするものでした。日露戦争のあと、日本は韓国にたいして、野蛮な軍事的威嚇のもとで、「保護条約」(第二次「日韓協約」)をおしつけ(一九〇五年十一月)、韓国から外交権を剥奪(はくだつ)し、「朝鮮統監府」を設置して従属国としていきます。それが一九一〇年の韓国併合――むきだしの植民地支配につながっていくわけです。

 日本の帝国主義・領土拡張主義は、まず台湾を植民地にし、つぎに韓国を植民地化するところから始まった。ここから誤った道に踏み込んだ。私たちは、この一連の動きを、決して忘れてはならないと思います。

中国侵略から太平洋戦争へ

 本田 その後の展開で重要な節目というのはどうなりますか。

 志位 この領土拡張主義が、こんどは、中国に対して向けられていくわけです。「対華二十一カ条要求」(一九一五年)で中国への侵略的野望をあからさまな形でつきつける。それに対して中国の民衆から激しい批判がおこる。しかし中国侵略の野望をすてず、一九三一年に「満州事変」を引き起こし、中国東北部への侵略戦争を開始し、全満州を占領し、日本のかいらい政権である「満州国」をつくる。

 そして一九三七年に「盧溝橋事件」を引き起こし、中国への全面侵略戦争を拡大していきます。上海から南京にたいして、侵略軍をすすめ、南京大虐殺事件をひき起こしたのもこのときです。

 こうして、まず台湾、韓国からはじまった領土拡張主義が、中国東北部に拡大し、さらに中国全体への侵略戦争に拡大する。ところが、さすがに中国への侵略戦争については国際社会から厳しい批判をあび、経済制裁を受ける。そのなかで、力ずくでも油や資源を強奪していこうとして始めたのが太平洋戦争(一九四一年―四五年)でした。

 この戦争がアジアと日本国民に惨たんたる被害をもたらし大破たんに終わったことは周知のことですが、これがそういう帝国主義・領土拡張主義の歴史の流れのなかで引き起こされた戦争だったことを、ひとつながりの流れとして、日本国民としてはきちんと記憶に刻んでおく必要があると思います。

過ちに正面から向きあってこそ、アジア諸国の信頼がえられる

 本田 戦後の中学校・高校での歴史というのは、近現代史が弱い。その辺の流れをきちんと教えるべきだということですね。

 志位 そうですね。いま、平和のアジア共同体をつくろうという流れがずいぶんひろがっています。昨年末には、東アジア首脳会議が開かれ、そういう方向が確認され、東アジアの平和の共同体が現実の課題になっています。

 私は、平和の共同体をつくろうというときには、参加する諸国が、歴史問題の基本点では共通の認識をもつことが前提になっていくと思うんですね。未来を展望しても、歴史の事実を若い世代にしっかり伝えていかなければならないと思います。

 本田 そういうことをいうと、自虐史観じゃないかという主張もありますが。

 志位 日本がどこで領土拡張主義という間違った道をすすんだか。これは被害にあった国からすれば、自分の国を失うという、侵略の屈辱と惨害をこうむった歴史です。この事実をしっかり認識するということは自虐でもなんでもない。むしろ、過去の歴史と正面から向き合って、間違いは間違いとして認める勇気をもつことこそ、本当の意味でアジア諸国から信頼される国になるし、日本国民も未来にたいして自信をもって歩むことができる。過ちに目をふさぐのは過ちの再生産になるのです。

ポツダム宣言、日本国憲法、国連憲章――戦後世界の土台に立脚して

 本田 戦後の日本の大きな政治のありようと流れについては、どのようにとらえておられますか。

 志位 出発点は、ポツダム宣言の受諾です。ポツダム宣言には、あの戦争についての性格がはっきり書いてあります。「世界征服」のための戦争だったと。つまり侵略戦争だったとはっきり書いてあり、この戦争への断罪がはっきりのべられています。そして日本の民主化と平和な国家の建設という方向が書かれているわけで、これがやはり出発点となっている。これをあらためてしっかり据えなきゃならない。

 そのもとで日本国憲法をつくり、そのなかで九条という形で恒久平和主義を刻んだわけですが、この九条というのは、過去の侵略戦争に対する反省のうえに、二度と繰り返しませんという国際公約なのです。そういうものとして九条をしっかりとらえておく必要があると思います。

 そして国際的枠組みとしては、一九四五年につくられた国連憲章がきわめて重要です。日本が国連に加入したのは五〇年代ですけれども、国連憲章の考え方というのは、日本、ドイツ、イタリアがやった戦争というのは侵略戦争であり、その反省のうえにたって、二度とああいう戦争を引き起こさないために、武力行使と武力による威嚇の禁止、紛争の平和解決など、恒久平和の理念を国際的なルールにしたわけです。

 ポツダム宣言、国連憲章、日本国憲法が、戦後日本の土台です。これをくつがえすような動きは歴史の逆行として絶対に許さないという立場が大事です。