2013年3月15日(金)
安倍内閣は、12日、サンフランシスコ平和条約が発効した4月28日に、政府主催で「主権回復の日」式典を開催することを決定した。
しかし、1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約と、同日発効した日米安保条約によって、日本は形式的には独立国となったものの、実質的にはアメリカへの従属国の地位に縛り付けられたというのが歴史の真実である。
この日を祝う「式典」をおこなうことは、今日に続く対米従属という国民的屈辱を「祝う」ことにほかならない。日本共産党は、このような式典の企てをただちに中止することを強く要求する。
サンフランシスコ平和条約は、当時、多くの日本国民の反対を押し切って締結(1951年9月8日に調印、52年4月28日に発効)されたものだが、この条約は、大きくいって三つの重大な問題点をもつものだった。
第一は、それが全面講和でなく単独講和であったことである。すなわち、日本が戦争をしていたすべての国との平和条約ではなくて、当時のアメリカの世界戦略に反対しない国ぐにとだけの平和条約となった。日本軍国主義の被害をもっとも深刻にこうむったのは、中国であり、韓国・朝鮮だったが、中華人民共和国の代表も、韓国の代表も、北朝鮮の代表も、この条約を議論したサンフランシスコ会議には招待されなかった。ソ連など3カ国は最終的に条約に署名しなかった。これは、そういう国ぐにとの国交回復という問題を、その後に残す結果となった。
第二は、「領土不拡大」というカイロ宣言、ポツダム宣言に明記された第2次世界大戦の戦後処理の大原則に背く、重大な誤りが持ち込まれたということである。サンフランシスコ条約では、第3条で沖縄を日本から切り離し、永久に米国の支配下におけるようにした。沖縄県民のなかでこの日を「屈辱の日」として記憶されていることは当然である。さらに、第2条C項で千島列島を放棄し、ヤルタ協定にもとづくソ連の不当な占領を追認するものとなった。これらの条項によって、沖縄は、その後、長きにわたって本土から切り離されて米軍の直接統治下に苦しみ、千島列島はいまだにロシアの支配下におかれるという問題がつくりだされた。
第三に、とりわけ重大なことは、サンフランシスコ条約は、第6条で、「連合国のすべての占領軍」の撤退を規定しながら、新たな条約にもとづく「外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない」として、米軍駐留の継続を認める特別の規定が設けられたことである。これは、日本占領の目的が達成されたら、占領軍は直ちに日本から撤収することを明記した、ポツダム宣言に反するものだった。
サンフランシスコ条約と連動して旧日米安保条約が結ばれた(調印、発効とも平和条約と同日)ことを、私たちは絶対に忘れるわけにはいかない。この旧安保条約は、アメリカが日本占領中に絶対権力でつくりあげられた基地のすべてをそのまま提供する条約となった。旧安保条約は、1960年に改定されたが、それは日本の従属的な地位を改善するどころか、基地貸与条約という性格にくわえ、有事のさいに米軍と自衛隊が共同してたたかう日米共同作戦条項などが新しい柱として盛り込まれ、日本をアメリカの対米従属的な「基地国家」として将来にわたって固定化するものとなった。
今日なお、多くの日本国民を苦しめている世界でも異常な米軍基地の重圧も、日本国憲法第9条に反する米軍と自衛隊との地球的規模での軍事的共同も、すべてその根源をたどると1952年4月28日に発効した日米安保条約にゆきつくのである。
旧安保条約の締結は、完全な秘密交渉としておこなわれ、全権代表団のなかで吉田茂首相をただ一人の例外として、1951年9月8日の署名の日まで、日本側の全権代表団にすらその内容を知らされず、日本国民にもまったく秘密とされた。しかも、当時の日本国内の状態というのは、占領軍への一切の批判を弾圧する戒厳令同然の状態であり、デモも集会も禁止されていた。国会ですら、日本共産党の川上貫一衆議院議員(当時)が、「ポツダム宣言にもとづく全面講和」を求めたら、当時の保守政党によって国会を除名処分にされるという暗黒状態だった。
このようにサンフランシスコ平和条約と日米安保条約は、日本国民の言論の自由を封殺したもとで、押し付けられたものであり、いかなる意味においても日本国民の選択の結果ではないことを強調しなければならない。
こうして、サンフランシスコ平和条約発効の日を「祝う」ことは、日米安保条約発効によって日本の異常な対米従属が固定化された日を「祝う」ことであり、沖縄を本土から切り離した屈辱の日を「祝う」ことであり、千島列島を放棄したことを「祝う」ことにほかならない。
この日は、日本をアメリカに売り渡した一部勢力にとっては「祝日」かもしれないが、日本国民の「祝日」には断じてなりえない。
同時に、この動きが、日本国憲法を安倍政権の言う「主権回復」以前に制定されたものとして、その改変を求める動きと一体のものであることもきわめて重大である。
日本共産党は、「主権回復の日」式典の企てを、ただちに中止することを、重ねて要求するものである。
【日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約、1952年4月28日発効)から】
第二条
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦(そうふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
第六条
(a) 連合国のすべての占領軍は、この条約の効力発生の後なるべくすみやかに、且つ、いかなる場合にもその後九十日以内に、日本国から撤退しなければならない。但し、この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。
【ポツダム宣言(米、英、支三国宣言、1945年7月26日)から】
十二、前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるゝに於ては連合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるべし