2011年8月3日(水)「しんぶん赤旗」

日本共産党創立89周年記念講演会

危機をのりこえて新しい日本を

志位委員長の記念講演


 日本共産党創立89周年記念講演会(1日)での志位和夫委員長の講演は次の通りです。


写真

(写真)記念講演をする志位和夫委員長

国民のなかの大きな変化と、日本共産党との共鳴

 お集まりのみなさん、インターネット中継をごらんの全国のみなさん。ご紹介いただきました日本共産党の志位和夫です。(大きな拍手)

 私たちは、今年の党創立記念日を、戦後最悪の大震災と原発事故のもとで迎えました。

 被災から5カ月近くがたち、漁業と魚市場の再開など、被災地のみなさんの懸命の努力で、復興にむけた息吹が各地で起こっています。

 しかし、いまなお9万人を超える方々が避難生活を余儀なくされ、先の見えない不安と苦しみのふちにおかれています。福島原発事故は、なお収束の見通しがたたず、被害が全国に拡大する深刻な事態が続いています。

 私は、あらためて亡くなられた方々への深い哀悼の気持ちとともに、被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。

 そして、被災されたすべての方々に、安心と希望のもてる生活が一日も早く訪れるように、日本共産党は、被災者支援、復旧・復興のとりくみに、ひきつづき党をあげて全力をつくす決意を表明するものです。 (拍手)

 私が、今日お話ししたいのは、3月11日を契機に、国民のみなさんのなかに政治や社会への見方、生き方にたいする大きな変化が起こりつつあるということです。そして、この変化が、戦後最悪のこの大災害にたいして「国民の苦難を軽減し安全を守る」という立党の精神で立ち向かう日本共産党の奮闘と共鳴しあい、新しい共同が広がっているということであります。

大震災――社会的連帯の広がりと、立党の精神にたった日本共産党の奮闘

「自己責任」論を国民的にのりこえ、社会的連帯を求める変化が

 大震災は、国民の意識にどういう変化をつくっているでしょうか。

 NHKの「あさイチ」という番組が、5月30日、「震災で変わった! オンナの生き方」という特集を放映しました。番組では、「東日本大震災の後、被災した人だけではなく、日本中の女性たちの生き方や価値観に変化が生まれています」として、つぎのような取材結果を明らかにしました。

 「変わる結婚観」――「被災地から遠く離れた大阪でも、震災の後、結婚相談所に入会希望する人が殺到。……ある30代の女性は、『震災前は、守られたいという意識が強く、結婚してラクになりたいという気持ちがあった。だけど、被災地の人たちの、相手の身を第一に考えて行動する姿を見て、守られるだけではなく、守れるようになりたいと思った』と話していました」

 「気持ちの変化〜人のために何かしたい」――「初めてボランティアに参加したという、ある女性を取材しました。小さな頃から引っ込み思案だったという彼女は、……被災地の現実を知ったことで『何かしたい、逃げちゃいけない』と奮いたちました。仲間と協力して、被災地にドライアイスを送る活動に参加。『前だったら、どうせダメだろうという気持ちでやる前から消極的になっていたと思います。でも参加してみて、あきらめるよりやってみようという気持ちになりました』と話していました」

 「『ご近所づきあい』が楽しく」――「千葉県浦安市の今川地区。ここに7年前から暮らすある女性は、それまで何となく避けてきたご近所づきあいのイメージが、震災で一変したと言います。幼い子どもを持つ彼女は、震災の日、隣の家に住む年配の女性に親子ともども助けてもらうという出来事を経験しました。それ以来、子どもの安全を守るには、住民同士の助け合いが大切だと感じ、自治会活動にボランティアで参加します。すると、それまで見えていなかった隣近所の人たちの素顔が少しずつ見えてくるようになり、ご近所づきあいを見直すきっかけになったのです」

 こういう報道であります。一つひとつは小さいし、あらわれ方もさまざまですけれども、私は、ここには大切な変化があると思います。そこに共通しているのは、「人と人の絆を大切にしたい」という思いです。同じような変化は、みなさんの身近にも感じられるのではないでしょうか。

 多くの国民は、これまで「自己責任」論をおしつけられて、ばらばらにされてきました。ところが、津波で、家族も、家も、街も失った、東北地方の人たちを目のあたりにして、1人では何もできない、みんなで力をあわせることこそ人間社会の本来のあり方ではないか。こういう思いが広がっているのではないでしょうか。多くの国民が救援募金をよせ、ボランティアにとりくんでいます。いま、「自己責任」論を国民的にのりこえ、温かい社会的連帯を求める大きな変化が、生まれているのではないでしょうか。(拍手)

被災者の苦しみに心をよせて――被災地で、募金で、ボランティアで

 こうした国民の変化のなかで、一人ひとりの被災者の苦しみに心を寄せて奮闘する日本共産党の活動が共鳴を広げています。

 まず、被災地での日本共産党員の奮闘です。私も、何度か、被災地にうかがいましたが、どこでも、日本共産党員が、自ら被災し、かけがえのない家族や友人を失いながら、救援・復興活動の先頭にたってがんばっている姿に接し、胸が熱くなる思いでありました。

 大震災によって、わが党も、49人の同志が命を落とし、10人が行方不明という犠牲をこうむりました。少なくない「しんぶん赤旗」の読者、支持者の方々も失いました。地方議員では、岩手県・陸前高田市の及川一郎市議会議員が亡くなりました。菅原則勝岩手県委員長は、その状況について、つぎのように語っています。

 「3月11日、及川議員は、重税反対集会に参加し、地震でデモ行進が中断してから、足取りが不明でしたが、意外なところからその動向がわかりました。盛岡市内で党議員と支部のみなさんが募金活動をしているときに、陸前高田から避難してきた人から『及川さんは、「津波だ、避難しろ! 逃げろ!」と最後まで避難の誘導をしていた』と伝えられたのです。その後、残念ながら、ショッピングセンターの非常階段のガレキの中から遺体で発見されました。及川市議は、中里市政の8年間を支え、さらに2月に戸羽市政へと継続させる大きな役割を党の市議団長として果たしました。地域の人は、『いつもにこにこ笑い、よく相談にのってくれ、面倒見がよい人だった』と語っています。不屈で、力強さ、思いやりをもった党員だったからこそ、最後の一郎さんのがんばりと姿があったと思います」

 及川一郎同志の奮闘を、みんなで心に深く刻みたいと思います。(拍手)

 被災地の日本共産党員のみなさんが、避難所で、仮設住宅で、破壊された漁港で、地方議会で、被災者救援の先頭に立ち、切実な要求を掲げて政治を動かし、住民の信頼を高めている。これは、「国民の苦難軽減のために献身する」という日本共産党の立党の精神を体現したものであり、わが党の誇りであります。(大きな拍手)

 全国の日本共産党員と党組織は、多くの民主団体の方々と共同で、救援募金やボランティアなど、被災地と心を一つにした活動にとりくんできました。

 日本共産党に託された「震災募金」は、8億8千万円を超えまして(拍手)、「党機関支援募金」は2億2千万円に達し、合計で11億円という空前の規模となっています(拍手)。自治体、農協、漁協、商工会議所、商工会などにお届けしていますが、感謝とともに驚きの声も寄せられています。「カネを出せという政党はあっても、義援金を届けてくれる政党には初めて出会った」(笑い、拍手)という声も少なくありません。(拍手)

 党のよびかけによるボランティア活動では、全国からのべ1万1千人以上が現地にかけつけ、民主団体のボランティアと共同して、被災者支援にとりくんでいます。

 ここには、多くのドラマがあります。

 「震災募金」の中央への振込用紙には、心のこもった声がびっしりつづられています。ある「しんぶん赤旗」の読者は、これまで420円、520円と、62回にわたって、総額4万1208円の募金を送ってくださっています。この方は、「できる範囲で募金しよう。共産党なら間違いなく救援に使ってくれる」と、1日1000円と決めている食費などの残金を募金として、送金をつづけてくれています。(拍手)

 ボランティアにも、さまざまなドラマがあります。宮崎県綾町の若い姉妹は、宮城県の石巻市で、救援物資を届け、泥だし、炊き出しなどにとりくみました。帰郷後、「まだまだ支援が足らない」との思いから、地元の町長さんに、ボランティアの体験と現地の実情を切々と伝え、「町として支援してほしい」と訴えました。それを受けて、町側も、「口蹄疫(こうていえき)のときには全国からお世話になりました。町としても何か援助したいと思っていました。協力させてください」と快諾しました。被災地の党地区委員会と連絡をとり、「いま住民がほしい物、不足している物」のリストをもとに、段ボール10箱の支援物資を送ったとのことであります(拍手)。日本共産党のボランティア活動がつくった「人と人との連帯の絆」が、「自治体と自治体との連帯の絆」につながったということは、うれしいことではありませんか。(大きな拍手)

 「苦しんでいる人びとがいたら、いてもたってもいられない」。こういう人々によって党が支えられていることは、うれしい限りであります。私は、募金とボランティアへのご協力に心から感謝するとともに、さらに被災地への支援を発展させることを強く訴えたいと思います。(大きな拍手)

大災害から国民の命を守って――暗黒政治のもとでの不屈のたたかいの歴史

関東大震災――命がけで被災者救援にあたった共青初代委員長

 みなさん。私たちの党は、今年で党をつくって89年になりますが、日本国民が大災害に遭遇したとき、そこにはつねに国民の命を守るために献身的に奮闘した日本共産党の活動がありました。今日は、戦前の天皇制権力による過酷な迫害のもとでの先輩たちの活動を紹介したいと思います。

 日本共産党が創立されたのは、1922年7月15日ですが、その翌年、1923年9月1日、関東大震災がおこり、死者・行方不明者が約10万5千人という大災害となりました。日本共産党は、1923年6月の第1次弾圧で党指導部ら約80人が検挙され、投獄されていました。しかし、党の指導のもとに1923年4月に結成された日本共産青年同盟――いまの日本民主青年同盟の前身です――の初代委員長の川合義虎をはじめ、弾圧をまぬがれた党員や労働組合員が、命がけで被災者の救援にあたりました。

 川合義虎は、当時の東京府の南葛飾郡を中心につくられた「南葛労働会」に参加し、「南葛魂」という言葉とともに語り継がれている戦闘的労働運動の中心的活動家としても活動していました。

 関東大震災が起こったとき、川合義虎は必死の救援活動にとりくみます。猛火が迫る中、幼児3人を救いだし、赤ちゃんには粉ミルクを買ってのませ、子どもにはビスケットを食べさせ、自分の上着を掛けて上野公園で一晩中抱いて、安全な所に移すということをやっております。彼のお母さん――たまさんは、その話を聞き、わが子の勇気とやさしい心づかいがうれしく、涙を浮かべて喜びます。ところが、川合義虎は、その直後に捕まって、亀戸の警察署で21歳の若さで虐殺されました(「亀戸事件」)。お母さんは、亀戸署に抗議に行き、「私の子はどんな罪で殺されたのか」と激しい怒りと涙で署長に抗議します。生まれたばかりの日本共産党と日本共産青年同盟は、こうした不屈の活動にとりくんだのであります。

 なおこの無法な虐殺行為に対して、亀戸の警察署長は「当然の処置」と開き直りの談話を出しましたが、それを出させたのは後に読売新聞社社主となった当時警視庁官房主事の正力松太郎という人物でした。この名前は、あとでお話しする原発問題の時にも出てくる名前ですので、覚えておいていただけたらと思います。

「昭和の三陸大津波」――苛烈な弾圧のさなかの救援活動

 いま一つ、紹介しておきたいのは、1933年3月3日、青森県、岩手県、宮城県を襲った「昭和の三陸大津波」――死者・行方不明者が3604人という大災害のさいの救援活動です。当時の日本共産党は、その前の月の2月20日に小林多喜二が特高警察によって虐殺されるなど、苛烈な弾圧のさなかにありましたが、全国に救援をよびかけます。

 これは当時の日本共産党の機関紙の「赤旗」(せっき)の1933年3月10日付です。1面は、小林多喜二の労農葬の呼びかけです。2面に、「大津波、飢餓、凶作の東北三陸沿岸を襲ふ 革命的労働者はいかに罹災民を救援するか」という大きな訴えが載っています。この訴えでは、被害の深刻さを克明に伝え、次の要求を掲げています。

 「一、米、着物、燃料、家屋材料は、国家、資本家地主から即時無償で直接罹災民に支給せよ!

 二、罹災地農民の小作料、税金、借金の棒引免除

 三、漁具、船、農具、種子肥料等一切の仕事に必要な用具の政府から無償支給」

 こうした要求を示して、「東北の兄弟のために、真実の労働者的立場から救援金、救援品を直接罹災民の手におくれ!」。こう呼びかけております。

 党と労農救援会は、医療救援隊を派遣するなど、懸命の救援活動にとりくみました。しかし、天皇制権力は、この救援活動に対しても大弾圧をくわえ、逮捕された数は300人余りにおよびました。

 逮捕された1人に、東京の大崎無産者診療所――今日の民医連運動の発祥の地――で看護師として働いていた砂間秋子さんという方がいます。夫の砂間一良さんは、当時、投獄されており、戦後、衆議院議員などをつとめた私たちの大先輩です。

 秋子さんたちは、被害の最も大きかった(岩手県)田老村に行くことになり、盛岡からは官憲の目を避けるため雪の中を歩き、約100キロ離れた宮古へ行き、さらに船で1時間半かけて現地に向かいました。役場で救援金と医薬品を渡し、すぐに診療をはじめます。たちまち行列ができました。ところがわずか3時間で特高警察によって逮捕されました。地元新聞は、特高情報でこう書きました。「罹災地に赤い魔手 三名のオルグ逮捕 診療行ひつゝ運動」。被災者の命よりも天皇制権力を守ることを上に置いたのです。

 無法で残虐な弾圧を受けながらも、私たちの先輩は、災害から国民の命を守るために、それこそ命がけでがんばりぬきました。この伝統は、戦後の、阪神・淡路大震災をはじめ、数々の災害救援でも脈々と発揮され、受け継がれてきました。

 いま被災地で発揮されている「国民の苦難軽減のために献身する」という日本共産党の精神は、こうした不屈の伝統の積み重ねのうえに築かれたものであるということを、私は、先輩たちへの心からの敬意をこめて強調したいと思います。(大きな拍手)

“財界主導の上からの復興”のおしつけか、“住民合意を尊重した復興”か

政治を前に動かす変化――「二重ローン」の解消をめざすとりくみ

 みなさん。大震災からの復興は、長期にわたる国民的大事業です。

 日本共産党は、被災者支援の緊急課題では、政治的立場の違いをこえて力をあわせるという姿勢を一貫してつらぬいてきました。そのなかで、政治を前に動かす変化もつくりつつあります。

 たとえば、「二重ローン」の解消をめざすとりくみです。わが党は、大震災にあたっての「第2次提言」で、国の責任で債権を金融機関から買い取る機構をつくり、債務の減免をはかるという提案をおこないました。この提案にもとづいて国会質問をつみかさねるなかで、野党間で協力の流れがおこり、参議院本会議で賛成多数で法案が可決されたということをご報告したいと思います(大きな拍手)。衆議院でも可決・成立させ、すべての事業者に支援がゆきわたる制度とするために全力をつくしたいと思います。

漁業者の絆を分断する卑劣な動き――「水産特区構想」に反対する

 同時に、“財界主導の上からの復興”のおしつけか、“住民合意を尊重した復興”かの、はげしいせめぎあいが起こっています。大震災を契機に、国民のなかに「人と人との絆を大切にしたい」という連帯の思いが広がっているとき、そうした思いを真っ向からふみつけにしようとする勢力がいます。

 政府と宮城県は、日本経団連のシンクタンクの青写真にそって、大企業が自由勝手に沿岸漁業に参入できるようにする「水産特区構想」なるものをもちだしてきました。船を失い、漁港も、加工業も、流通業も破壊されるもとで、漁業者のみなさんが一体になって必死に再建しようとしているときに、復興にむけてやるべきことをやらず、漁業者のみなさんを追い詰め、その絆を分断して、ここがチャンスとばかりに大企業にもうけ口を提供する。こんな卑劣な政治は許すわけにまいりません。(「そうだ」の声、大きな拍手)

 漁協のみなさんは、この動きに激しく反対しています。先日、私は、全漁連(全国漁業協同組合連合会)が開催した、「水産特区」で浜の秩序を壊すなと訴えた緊急全国集会に参加しました。全国の漁業者の深い怒りに包まれた集会となりました。

 宮城県漁協の阿部力太郎理事長は、「家や船、漁具を失った漁業者は避難生活を送りながら立ち直ろうとしている。その苦しい時期に、なにゆえ漁場を企業に与えることを可能にする水産特区をつくらなければならないのか」と、切々と訴えました。

 岩手県漁連の大井誠治会長は、こう訴えました。「われわれは三つの涙を流した。大津波で壊滅的打撃を受けた悲しみの涙、多くの励ましや支援をうけている感動の涙、『水産特区』構想による『不安と混乱を招く憤りの涙』だ」

 その後、各党が、「所信表明」ということで発言しました。私が、「漁業者の絆を分断し、企業が強引に土足で浜に入ることに断固反対」と訴えますと、温かい拍手が何度も起こりました。共産党の委員長が、全国の漁業者のみなさんの前で話すのは史上初めてでありまして(拍手)、最初は先方も緊張していたようで(笑い)ありますが、深く心が通じた思いがいたしました。

 日本共産党は、この無法な攻撃にたいして、相手があきらめるまで、漁業者のみなさん、国民のみなさんと手を携え、日本の漁業、東北の漁業を守るためにがんばりぬくことをお約束したいと思います。(大きな拍手)

ソニーの無法なリストラ計画――大震災のときこそ大企業は社会に恩返しせよ

 もう一つ、被災地で大問題になっているのが、ソニー仙台テクノロジーセンターによるリストラ計画です。

 ソニーは、被災を理由に、労働者2000人のうち、正社員280人を県外に広域配転する、期間社員150人は全員を雇い止めにするという計画を打ち出しました。しかも許しがたいことに、ソニーの中鉢(良治)副会長は、政府の復興構想会議に経済界代表の委員として参加しています。

 わが党の山下芳生議員が、先日の参院予算委員会で、首相に「ほおっておくつもりですか」ときびしくただしました。首相はしどろもどろになり、自民党席の方からも「応援」のヤジが飛びました。「復興構想会議こそ雇い止めにしろ」(笑い、拍手)。この質問は大きな反響をよびましたが、私は、とくに二つの点が国民の心に響いたと思います。

 一つは、ソニーで働く若い期間社員は、自ら被災しながら職場に駆けつけ、泥のかきだしなど工場の復旧作業にあたったのです。ソニーで働くことに誇りを持ち、雇用の形こそ非正規でしたが、仕事の中身と志はプロフェッショナルだったのです。そういう若者を震災のただなかで切り捨てて、どうして復興ができるか。(「そうだ」の声、拍手)

 もう一つは、地元の中小企業との姿勢の違いです。宮城県気仙沼市で水産加工業を営む地元企業は、九つある工場のうち八つが津波で全壊しながら、800人の従業員を1人も解雇せず、「雇用を守ることは地域の絆を守ること」という信念のもとにがんばっています。地元の中小企業がそういう覚悟で逃げずに雇用を守っているのに、大企業がさっさと逃げ出すということが許されるのか。(拍手)

 こうした無法を許すわけにはいきません。大震災のときこそ、巨額の内部留保をため込んできた大企業が雇用を守り、社会に恩返しすべきではありませんか。(「そうだ」の声、大きな拍手)

「ルールある経済社会」――社会的連帯で人々が支え合う新しい日本を

 復興のたたかいは、日本共産党綱領が示す「ルールある経済社会」を築く重要な内容の一つです。この危機を、国民みんなの力でのりこえ、災害で壊された生活と生業の基盤回復を国の責任でおこなうしっかりしたルールをつくろうではありませんか。震災に乗じた大企業の横暴勝手を許さず、雇用と地域への社会的責任を果たさせるルールをつくろうではありませんか。

 みなさん。危機にさいして、国民のなかで「人と人との絆を大切にしたい」という新しい変化、未来ある変化が起こっていることに深い確信をもち、この変化をさらに発展させて、社会的連帯で人々が支え合う新しい日本をつくろうではありませんか。(大きな拍手)

原発災害――「安全神話」の崩壊と、日本共産党への注目

「政治のウソ」が明るみに出され、「真実を知りたい」という動きが

 つぎに原発問題と日本共産党の立場について話したいと思います。

 東京電力・福島第1原発の事故は、事故後5カ月になろうとしていますが、なお深刻な事態が続いています。

 私は、まず政府にたいして、「収束方向が見えてきた」などと根拠のない楽観論をふりまくのでなく、起こっている事態を客観的に把握し、最悪の事態も想定し、収束のためになしうるすべてのことを、責任をもって実行することを強く求めるものであります。(拍手)

 また、放射能の被害から国民の命と健康を守るためのあらゆる手だてをとるとともに、被害者にたいするすみやかな全面賠償をおこなうことを、政府と東京電力に強く求めます。(大きな拍手)

 原発問題をめぐって、国民の意識に劇的な変化が起こっています。被害の深刻さが明らかになるにつれて、どの世論調査でも、国民の7割から8割は、原発の縮小・廃止を求めています。「原発安全神話」は、根底から崩れつつあります。原発をめぐる「政治のウソ」が明るみにだされるもとで、「真実を知りたい」という動きが広がり、それは、これまで原発の危険性を批判しつづけてきた日本共産党への新たな注目になっています。

 不破哲三社会科学研究所所長が、「綱領・古典の連続教室」でおこなった講義――「『科学の目』で原発災害を考える」のパンフレットが大反響であります。

 これは、兵庫県医師会の「会報」ですが、6月1日におこなわれた理事会の様子が報じられています。医師会の川島龍一会長の「あいさつ」が掲載されていますが、これを読みますと、「私は共産党員ではありませんが」と断りながら(笑い)、「あいさつ」の何と3分の2は、不破さんの「パンフ」の紹介なんですね(驚きの声)。じっくり読みこんだと思われる正確かつ詳細な紹介になっています。川島会長は「あいさつ」の最後に、「医師会を挙げて、根本的に原発問題というのをしっかり考え直さなければいけない」と訴えておられます。さらに、川島会長は、その後開かれた兵庫県医師連盟の総会の「あいさつ」で、「ある野党は原発反対を一貫して主張しつづけてきた。我々はイデオロギーの違いを理由に意見を聞いてこなかった。その反省に立って、これからは党派を超えて交流し、我々の医療理念を提言していきたい」と語っておられます。(拍手)

 「安全神話」が崩れてみますと、これまで視野に入っていなかった日本共産党が、誰よりも正論をのべていた。ここでも新しい響きあいが起こっているではありませんか。(拍手)

国民の声が政治を動かし始めた――原発再稼働と「やらせ」問題をめぐって

 さらに、国民の声は、政治を動かしはじめました。

 5月、東海地震の想定震源域の真上につくられた中部電力・浜岡原発が停止に追い込まれました。浜岡原発をとめた力はどこにあるか。菅首相の力ではありません(笑い)。1967年に計画がもちあがって以来、一貫して反対をつらぬいてきた住民運動の力であり、第一歩の勝利であります(拍手)。先日、静岡市で5千人の大集会がもたれ、私も参加して、その熱気に感動しましたが、「永久停止・廃炉」を実現するまでがんばりぬきたいと思います。(大きな拍手)

 さて、浜岡原発が「危険」ということになりますと、「他の原発は安全か」という大問題が持ち上がってきました。定期検査中の原発の再稼働を認めていいのかが焦点となりました。政府は、小手先の姑息(こそく)な「対策」なるものをほどこしただけで「安全宣言」をおこない、電力会社に再稼働を要請しました。しかし、この「対策」なるものがいかにひどいものか。一例をお話ししましょう。たとえば「水素爆発対策」として原子炉建屋に穴をあけるドリルを用意させたというのです(どよめきの声)。しかしみなさん、考えてみてください。炉心が溶けて、水素爆発をしそうな原子炉建屋に、いったい誰がよじのぼってドリルの操作をするのでしょうか。(笑い)

 この「安全宣言」なるものが役に立たないということになり、政府は、追加の「安全テスト」――「ストレステスト」をやると言いだしました。しかし、この「テスト」をやるのはいったい誰でしょうか。電力会社と、原子力安全・保安院と、原子力安全委員会です。しかし、この面々といえば、あの大事故を起こし、収束もできない、資格も能力もないことが証明された3人組ではありませんか(拍手)。「テスト」をするどころか、「テスト」されなければならない側ではありませんか。(笑い、拍手)

 こんな無責任な取り繕いで原発を再稼働させることは、断じて認めるわけにはいきません。(大きな拍手)

 くわえて、とんでもない問題がもちあがりました。九州電力の「やらせメール」問題です。「やらせメール」には「例文集」というのもありました。たとえば、「電力が不足していては、夏の『熱中症』が大変に心配です。犠牲になるのは、弱者である子どもや年配者」。「弱者の味方」を装った卑劣なものです。

 この問題は、九州電力の関連会社の方から、共産党福岡県委員会に、「これはあまりにひどい」と告発が寄せられました。「しんぶん赤旗」は慎重に事実関係を確かめたうえで、スクープ記事を掲載しました。他の新聞もだいたいのことはつかんでいたようですが、九州電力に否定されると、みんな載せなかったのです。載せたのは「しんぶん赤旗」だけでした(拍手)。つづいて国会で、笠井亮議員が追及しました。海江田経済産業大臣は、「そんなことが本当だとすれば許されない」といい、その夜、ついに九州電力は緊急記者会見を開き、「やらせメール」の事実を認めました。日本共産党ならではの「草の根から国会」への連携プレーでウソをあばき、玄海原発の再稼働をストップさせた。(大きな拍手)

 さらに、「やらせ」問題は拡大しています。中部電力や四国電力管内の国主催のシンポジウムで、何と原子力安全・保安院が、賛成質問などを要請していたことが、明らかになりました。原子力を規制すべき保安院が、「やらせ」を要請するなど言語道断、文字通りの自殺行為であります(大きな拍手)。「保安院」どころか“不安院”(爆笑)に身をおとした原子力安全・保安院は解体し、(原子力の)推進機関である経済産業省から文字通り独立した原子力の規制機関をすみやかにつくれ。このことを強く求めたいと思います。(「そうだ」の声、大きな拍手)

 「やらせ」問題は、何を明らかにしたでしょうか。それは、不正な世論操作をやらなければ、「原発は安全だ」と住民を説得することができない、言い換えれば、原発がいかに危険なものであるかを、自ら証明したのが「やらせ」にほかなりません。(拍手)

 みなさん。国民の声、日本共産党の活動が、政府と電力会社をここまで追い詰めたことに確信をもって、たたかいを前進させようではありませんか。(大きな拍手)

原発の危険性の本質は何か――いまこそ「原発ゼロの日本」を

「原発撤退提言」――原発の危険性を突き詰めて解明し「撤退の論理」を示す

 みなさん。福島原発事故は、原発と人間社会は共存できるのかという大問題をつきつけました。日本共産党は6月13日、「原発からのすみやかな撤退、自然エネルギーの本格的導入を――国民的討論と合意をよびかけます」と題する「提言」を発表いたしました。この「提言」のなかで、私たちは原発の危険性とは何かを突き詰めて明らかにし、「撤退の論理」を太く示しました。

 第一は、原発事故には、他の事故にはみられない「異質の危険」があるということです。すなわち、ひとたび重大事故が起こった場合に、放射性物質が外部に放出されますと、もはやそれを完全に抑える手段は存在しません。

 被害は、「空間的」に、どこまでも広がる危険があり、現に放射能による汚染は、日本列島の各地に深刻な打撃をあたえています。

 被害は、「時間的」に、将来にわたって続く危険があります。とくに子どもたちへの健康被害が強く懸念されます。未来を担う世代の命と健康を守るために、あらゆる手だてをとることを、私は政府に強く求めるものであります。(拍手)

 そして、被害は、「社会的」に、地域社会の存続をまるごと危機にさらしています。私は、震災後、福島県川俣町、飯舘村、南相馬市などを訪問しましたが、美しい花が咲き、緑豊かな自然が広がる土地です。はるか山の先から雲に運ばれてやってきた放射能によって、避難を強いられた住民のみなさんの無念と怒りはいかばかりかと思います。

 人間社会にこうした危険をもたらす事故が、他にあるでしょうか。中曽根(康弘)元首相は、震災後、「飛行機だって落ちる」とのべました。もとより飛行機事故も起こしてはならないものですけれども、事故の可能性があるからといって「飛行機廃絶」を訴える人はいないでしょう。原発事故というのは、飛行機事故とも違う、自動車事故とも違う、それは、文字通り他に類のない「異質の危険」を人間社会にもたらすものです(「そうだ」の声、拍手)。この危険をなくす方法は、ただ一つ、原発そのものをなくすしかない(大きな拍手)。このことを訴えたいのであります。

 第二に、こうした「異質の危険」は、何に起因しているでしょうか。それは、現在の原発の技術が、本質的に未完成で危険なものであるということに起因しています。

 それでは原発の危険性の本質とは何か。それは、一言でいいまして、いま開発されているどんな型の原子炉も、核エネルギーを取り出す過程で、莫大(ばくだい)な「死の灰」を生み出すということにあります。そして、いったん「死の灰」がつくられたら、人類は、それをコントロールする手段をもちあわせておりません。「死の灰」を無毒にする方法を、人類はもっていません。それはただ閉じ込めておくしかありません。しかし、安全に閉じ込めておく方法を、人類はもっているか。もっていないことは、「スリーマイル」、「チェルノブイリ」、「フクシマ」と、人類は3度も経験したではありませんか。

 「死の灰」の危険がなくなるには、ただ時を待つしかありません。しかしそれに要する時間は何と100万年という「超歴史的」な時間です。100万年先といってもピンときませんが、いまから100万年前といいますと、北京原人よりもっと前の時代です(どよめきの声)。これから100万年先というとほうもない時間、「死の灰」を閉じ込めておく保障がどこにあるでしょうか。いったい誰の責任でそれをやるのでしょうか。

 「核のゴミ」の国際的な最終処分場を日米主導でモンゴルに造る計画が報じられています。私は「先進国」でつくった「核のゴミ」を、途上国のはるか未来の世代にまでおしつけることは、絶対にやってはならないということを訴えたいと思います。(大きな拍手)

 みなさん。ここに原発のもつ危険性の本質があります。安全な原発などありえません。その危険をなくす方法は、ただ一つ、原発をやめるしかありません(「そうだ」の声、拍手)。このことを重ねて強調したいと思います。

 第三に、これらを踏まえまして、私たちの「原発撤退提言」では、原発のすみやかな撤退を決断し実行に移すこと、同時並行で自然エネルギー・再生可能エネルギーの本格的な普及に全力でとりくむことをよびかけました。日本の自然エネルギーには、巨大な可能性があります。環境省の試算でも、実際に利用可能な自然エネルギーは、原発の総発電能力の40倍にものぼります。

 先日、私は、外国特派員協会で原発問題の講演を行う機会がありました。特派員との一問一答の質疑も活発で、わが党の「提言」への共感も寄せられました。このパンフレット(『「原発ゼロ」の日本を――原発事故の三つの教訓』)に「原発撤退提言」などとあわせて収録しています。ぜひ、こちらのパンフレット(『「科学の目」で原発災害を考える』)の“姉妹版”として(笑い)、セットでご活用ください。

 この講演では、質疑の最後に司会者がこう結びました。

 「きょうは党の政策を説明してくださり、ありがとうございました。再生可能エネルギーの可能性は原発の40倍にあたるということが頭から離れません。志位さんには、原発撤退を実現させた後に再びここに来ていただき、どうやって、それを実現したかを報告してくださることをメンバー全員が期待しております」。(拍手)

 一日も早くそうした日をつくりたいと思います。

 国民的討論と合意で、「原発ゼロの日本」をつくるために、大いに力をつくそうではありませんか。(大きな拍手)

国民に隠された恐るべき被害推定――原発は隠蔽と虚構のうえにつくられた

 ところで、原発事故のもつ「異質の危険」について、政府は知っていたのでしょうか。

 実は、政府は、1960年に、茨城県東海村で50万キロワットの原発が重大事故を起こしたさいの被害推定をおこなっていました。ここにもってまいりましたが、「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」と題する244ページにのぼる詳細な「レポート」です(科学技術庁の依頼で、原子力産業会議がまとめたもの)。その結果は、恐るべきものでした。

 「レポート」の最後に、被害の推定試算表が出ていますが、数百人の死者、数千人の放射能障害者、400万人の放射能被害による要観察者が生じうる。損害額は、当時の日本の国家予算の2倍以上、3兆7300億円にのぼる。これが、現在までに唯一、日本政府がおこなった原発の重大事故に関する被害推定なのです。

 しかし、あまりにも衝撃的な被害の大きさにおののいて、政府は、国会にもそのごく一部を報告しただけで、肝心の被害推定については国民に隠しつづけてきました。この隠された「レポート」は、19年後、日本共産党の努力で掘り起こされ、1979年4月9日付の「赤旗」で「幻の被害推定報告書」としてスクープされました。それでも政府は、被害推定をしたこと自体を否定し続けました。政府がこの「レポート」の存在を公式に認めたのは、さらに20年たった1999年のことでした。被害推定をしながら、何と39年間も国民に隠しつづけてきたのです。

 この「レポート」が1960年に正直に公開されていたら、私は、日本に現在の54基もの原発をつくることはできなかったと思います。原発事故の恐るべき危険を知りながら、都合の悪いことは国民に隠す。「原発は安全」だという「安全神話」を垂れ流して、国民に原発をおしつけた歴代政権の罪はあまりに深いといわなければなりません(大きな拍手)。真実を隠蔽(いんぺい)し、ウソと虚構のうえにつくられた原発は、なくすしかありません。(「そうだ」の声、拍手)

原発の危険に反対する戦後半世紀余のたたかいの歴史

原発導入の最初の段階から、危険性に警鐘ならし、住民とともにたたかう

 みなさん。ここで私は、原発の危険に反対しつづけた日本共産党の半世紀余の歴史を話したいと思います。

 1953年12月、アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連演説で「アトムズ・フォー・ピース」――原子力の「平和利用」をよびかけます。濃縮ウランを世界中に提供して、原子力を米国の支配下におく大戦略を始めます。その標的となったのが日本でした。

 1955年に、最初の日米原子力(研究)協定が結ばれ、原子力基本法がつくられ、初代原子力委員長には正力松太郎氏――関東大震災の救援を弾圧したその人――が就任します。この原子力基本法にたいして、当時の自民党も、社会党も賛成するなかで、その危険性の問題を指摘して反対したのは、当時、労農党と共同会派をくんでいた日本共産党だけでありました。

 1950年代後半、この原子力基本法をうけて、研究炉と商業炉の導入が急ピッチで進められます。そのもとで、日本の東と西で二つの原発計画に反対する住民の運動が起こり、日本共産党はその先頭に立ちました。一つは、関西研究用原子炉の設置に反対する運動です。もう一つは、茨城県東海村に初の商業用原発を導入する動きに反対する運動です。東西二つの反対運動が起こりました。

 このたたかいをふまえて、日本共産党は、党綱領を決める直前に開いた1961年7月の中央委員会総会で、「原子力問題にかんする決議」を採択します。その決議には、「わが国のエネルギー経済、技術発展の現状においては、危険をともなう原子力発電所を今ただちに設置しなければならない条件は存在しない。われわれは東海村の原子力発電所の建設工事の中止を要求する」とはっきり明記しています。

 日本共産党は、日本に原発が導入されたいちばん最初の段階から、その危険性に警鐘をならしてきっぱり反対し、住民とともにたたかってきたことを、紹介しておきたいと思います。(拍手)

全国のたたかいで、「原発1億キロワット」の計画を半分以下に抑え込む

 1960年代以降、電力会社による原発設置計画がつぎつぎと明らかになるなかで、日本共産党は、その全ての計画に反対し、全国各地で住民とともにたたかってきました。国会論戦でも、「安全神話」のウソを追及し、原発のもつ重大な危険性と、それを管理・監督する政府の無責任さを具体的にただしてきました。

 私が今日、強調したいのは、草の根のたたかいと国会での論戦によって、政府と電力会社の思い通りには、事がすすまなかったということです。

 こんにちまでに、全国で17カ所の原子力発電所が建設され、54基の原発が存在しています。原発の総発電能力は約4800万キロワット、日本の総発電量に占める原子力発電の割合は25%となりました。しかし、いま立地している17カ所の原子力発電所は、すべて1960年代までに、電力会社の立地計画があきらかになったり、自治体が誘致に動いたりしたもので、1970年代以降に新規立地が計画された原子力発電所で稼働までこぎつけたものは一つもないのです。(驚きの声)

 住民運動と日本共産党の共同の奮闘によって、原発の立地を断念させたたたかいが無数に生まれました。調べてみますと、主なものだけでも全国で25カ所におよびます。一つひとつ地名を読み上げていきたいと思いますが、問題が起こった当時の地名ですから、懐かしい地名も(笑い)多いかと思います。

 新潟県巻町、石川県珠洲市、福井県小浜市、福井県川西町三里浜、京都府久美浜町、京都府舞鶴市、京都府宮津市、兵庫県御津町、兵庫県香住町、三重県紀勢町・南島町芦浜、三重県紀伊長島町城ノ浜、三重県海山町大白浜、三重県熊野市井内浦、和歌山県日置川町、和歌山県日高町、和歌山県古座町、岡山県日生町鹿久居島、山口県豊北町、山口県萩市、徳島県海南町、徳島県阿南市、愛媛県津島町、高知県窪川町、高知県佐賀町、宮崎県串間市。主なものだけでも25カ所です(拍手)。これを全部つぶしたのです。これだけの原発立地計画を、住民の運動で、住民投票で、首長選挙で、中止においこんだ。(驚きの声)

 政府と電力業界は、原発をどれだけ増やそうとしていたのでしょうか。1972年に政府がつくった「長期計画」では、当時、182万キロワットだった原発を、1990年には「1億キロワット」まで増やす計画を立てています。恐るべき原発大増設の野望であります。これが実現していたら、日本の電力の半分は原発となり、“原発中毒”で体はボロボロとなり、そこから抜け出すのは大きな困難となったでしょう。しかし「1億キロワット」という目標は達成できず、約4800万キロワットと半分以下に抑えられたのです。

 全国の住民のたたかい、日本共産党のたたかいが、原発大増設の計画を半分以下に抑えこんだ。全国各地で展開された草の根のたたかいの歴史に、大いに自信と誇りをもとうではありませんか。(大きな拍手)

立地が強行されたところでも粘り強いたたかいが続く

 原発の立地が強行されたところでも、全国どこでも、原発の危険とのたたかいが、不屈に、粘り強くとりくまれました。

 福島原発についても、住民運動と日本共産党による長いたたかいの歴史があります。先日、福島県議会の佐藤憲保議長が要請に見えて、私につぎのように話されました。

 「(日本共産党の)宮川えみ子県議が、昨年、県議会のエネルギー政策議員協議会で、『地震・津波対策がとられていない。もし事故が起きればどうするのか』と発言されたのが忘れられません。1年前の宮川さんの発言をもっと真剣に受け止めていれば、多少変わったかなと反省しています。福島県議会で原発からの撤退の方向性を確認しました。原発に協力してきた大きな責任があり、だからこそ今後の対応に大きな責任を背負っていると考えています」

 私は、「たいへん立派な姿勢で、胸にしみました」と応じました。福島原発は、不幸にして大事故となりましたが、私は、その危険に警鐘を鳴らし続けた活動は、けっして無駄ではない。今後に生きるものだということを、確信をもっていいたいと思います。(「そうだ」の声、拍手)

 みなさん。戦後半世紀余りにわたって、国民の安全に責任を負う立場から、住民とともに原発の危険に反対をつらぬいた政党が日本共産党であります(「そうだ」の声、拍手)。今回の「原発撤退提言」は、この歴史の積み重ねのうえにつくられたものであり、私は、長年にわたって住民の命と安全を守って草の根のたたかいにとりくんでこられたすべての方々に、心からの敬意を表したいと思います。(大きな拍手)

日本の政治の歪みをただし、社会の姿かたちを変えるたたかい

「原発利益共同体」――“原子力村のペンタゴン”

 みなさん。なぜ日本のような世界有数の地震・津波国が、原発列島とされていったか。その根底には、日本の政治の二つの歪(ゆが)みが横たわっています。

 第一は、日本経団連も深く関与しての「原発利益共同体」ともよばれている利権集団の存在であります。

 原発は、1基つくるのに5千億円もかかるといわれるビッグビジネスです。これでもうけている勢力は誰か。まず、電力会社、原発メーカー、大手ゼネコン、鉄鋼・セメントメーカー、大銀行など、財界の中枢を構成する大企業です。この勢力が、原発推進の政党・政治家に政治献金を配り、代弁者にしたてあげる。特権官僚と癒着し、官僚を操り、官僚は電力会社に天下りして巨額の報酬を得る。一部「有名大学」の研究などに巨額の寄付をばらまき、御用学者をつくりあげる。原発事故が起こった後も、彼らは恥知らずにもテレビに登場し、「ただちに健康に影響はないと考えられます」とか、「原子炉格納容器の健全性は確保されていると考えられます」とか、無責任な発言をくりかえしました。そして、電力会社は、巨大メディアを巨額の広告費で買収し、「共同体」の仲間に引き入れました。

 これらの「原発利益共同体」は、あらゆる異論を排除する「原子力村」とよばれる閉鎖集団をつくり、「安全神話」の製造元となり、国民をウソで欺いて原発を推進し、巨額の利益をむさぼってきました。私は、先日の外国特派員協会での講演で、これに“原子力村のペンタゴン”という名前をつけました(笑い)。「ペンタゴン」とは「五角形」のことですが、財界、政界、官僚、御用学者、巨大メディアによる“ペンタゴン”であります。このパンフレット(『「原発ゼロ」の日本を』)の表紙のデザインとなっている「五角形」の意味はそこにあります。(笑い)

 私は、「原発利益共同体」の一員として、国民を欺いて利益をむさぼり、大もうけをしてきた勢力に強く求めます。まず、その罪を深く反省することを求めます(「そうだ」の声、大きな拍手)。そして、原子力災害の被害にたいする共同責任と、賠償への共同の負担義務を果たすことを強く求めるものであります。(「よし」の声、大きな拍手)

「原発マネー」で総なめにされた大手新聞に猛省を求める

 私が、深刻だと考えるのは、巨大メディアが、この利権集団の一員に加わっているという事実であります。

 ここにもってきたのは、電力10社で構成する電気事業連合会で広報部長を務めた鈴木建氏の回顧録『電力産業の新しい挑戦――激動の10年を乗り越えて』(日本工業新聞社、1983年)と題する本であります。1970年代、電力業界が、巨額の広告料で、大手新聞を次々に買収していった経過が、当事者の口から赤裸々に語られています。

 それは朝日新聞から始まりました。1974年8月から、電力業界の10段のPR広告が、毎月欠かさず「朝日」に掲載されるようになります。

 そうしますと、「早速読売新聞が飛んできた」(笑い)と鈴木氏は書いています。「読売」の広報担当者はこう求めました。「原子力は私どもの社長の故正力松太郎さんが導入したものである。それをライバル紙の朝日にPR広告をやられたのでは、私どもの面目が立たない」(笑い)。こうして、「読売」にもPR広告が載るようになりました。

 「朝日」、「読売」とつづきますと、鈴木氏によると「毎日新聞も馳(は)せ参ずる」(笑い)。「毎日」からも広告の要請がくるようになりました。しかし、「毎日」は当時、原発に反対するキャンペーン記事を掲載していました。鈴木氏はこう啖呵(たんか)をきります。「御社ではいま、原子力発電の反対キャンペーンを張っている。それは御社の自由である。……反対が天下のためになると思うのなら、反対に徹すればいい…。広告なんてケチなことは、どうでもいいではないですか」(どよめきの声)。こう言われて、「毎日」は、原発の記事を「慎重に扱う」と約束し、「毎日」にもPR広告が載るようになりました。

 こうして「原発マネー」は大手新聞を総なめにしていったのです。

 私が、先日、外国特派員協会でこの話をしましたら、特派員のみなさんは強い関心をもったようで(笑い)、「一問一答」で最初に出された質問は、「『朝日』が電力業界の買収の最初のターゲット(標的)になったと聞きました。私たちは『朝日』はリベラルと認識していたのですが」というものでした。私は、「大型広告が『朝日』から始まったのは、(電力業界側が)『朝日』がそのような新聞だと一般に見られていたことを考慮してのことだと思います」と答えました。

 「朝日」には、当時、どんなPR広告が掲載されていたのか。今日は証拠物件(笑い)をもってまいりました。これは、1975年8月27日付の朝日新聞に掲載されたPR広告です。10段の大きい広告です。大見出しは「原子炉が爆発しないのはなぜか」(どよめきの声)。何と書いてあるか。「原子炉は原爆とはまったく違った性格のものです」、「原子炉の安全設計は、“取り越し苦労”ともいえるほど、念入りに行われています」、「たとえすべての制御装置が働かなくなったとしても、大事故を起こすことはありません」(どよめきの声)。こういうものを出していたんですね。

 「朝日」は、PR広告が掲載されると、自分自身でも原発推進のキャンペーンをはるようになります。1976年の7月から9月にかけて「核燃料――探査から廃棄物処理まで」と題する48回の連載記事が掲載され、この一冊の本(『核燃料 探査から廃棄物処理まで』、朝日新聞科学部・大熊由紀子著、1977年、朝日新聞社)にまとめられました。読んでみますと、目を覆うばかりの「原発安全神話」が満載されております。

 原発事故が起こった後、これらの大手新聞のなかには、原発の危険を多少とも伝える報道を始めているところもあります。それ自体は結構なことです。しかし、自分たちがやってきたことへの猛省が必要ではないでしょうか(「そうだ」の声、大きな拍手)。東京の2万人集会、静岡の5千人集会を、1行も報道しないという姿勢はあらためたらどうでしょうか(「そうだ」の声、大きな拍手)。それは、事実に誠実で、公正な報道機関なら当たり前のことだと私は考えるものであります。(「そうだ」の声、拍手)

濃縮ウランも原子炉もアメリカ頼み――対米従属から抜け出そう

 第二の問題は、日本の原子力政策が、日本国民の意思によってではなく、アメリカの原子力戦略に従属して決められてきたという問題です。そのテコになったのは、原子炉で燃やす燃料となる濃縮ウランでした。

 最初の日米原子力(研究)協定は1955年で、濃縮ウラン6キログラムが提供されます。これを燃やさなければならないというので、アメリカ製の研究炉を輸入します。“「濃縮ウランの提供」↓それを燃やすための原発導入”という「世界に類を見ない逆立ちしたスタート」となりました。

 つぎは1958年の日米原子力協定で、今度は濃縮ウラン2・7トンが提供されます。それと一体にアメリカ製の実験炉が輸入されます。つぎは1968年の日米原子力協定で、今度は大規模です。濃縮ウラン154トンが提供されます。これと一体に原子炉は、アメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)と、ウェスチング・ハウス(WH)という原発メーカーが競って売り込みをかけてきます。その後も日米原子力協定は更新されましたが、こんにちも日本の原発で使われている濃縮ウランの73%はアメリカからの輸入に依存しています。

 原子炉も、自分でつくったものではありません。アメリカ製品のコピーにすぎません。福島第1原発1号機は、ゼネラル・エレクトリックの設計をそのままコピーしたものでした。そのために笑えない笑い話がおこりました。非常用電源が津波でまっさきに壊される地下に設置されたのです。なぜそんなバカなことをしたのか。アメリカでは一番の自然の脅威といえばハリケーンと竜巻なのです。だから非常用電源は地下に設置されるのです(驚きの声)。アメリカ製品をコピーした結果が、この重大事故を招きました。

 その後につくられたいろいろな原発も、アメリカ技術のコピーにすぎません。だから重大事故が起こると自分で処理ができないでしょう。アメリカの力を借りないと、自力で対処することができない。世界の主要な原発利用国で、自力で原発の開発をせず、コピー製品に頼っているのは日本だけです。

 濃縮ウランも、原子炉も、アメリカ頼み。事故の処理も自力でできない。こんなエネルギーの対米従属からは抜け出して、自然エネルギーという国産エネルギーに大きく切り替えようではありませんか。(「よし」の声、大きな拍手)

人間らしい社会をつくる大きな展望をもって

 みなさん。原発からの撤退のたたかいは、「原発利益共同体」を解体し、国民の命と暮らしを守る「ルールある経済社会」を築くたたかいです。エネルギーの対米従属を打破していくたたかいです。それは、アメリカ・財界いいなりという日本の政治の「二つの異常」をただし、日本社会の姿かたちを大きく変えるたたかいです。

 自然エネルギーの本格的な普及と、低エネルギー社会への転換によって、すべての人々が安心して暮らせる社会、人間らしい生活と労働が保障される社会をつくる――これが私たちの展望であります。

 みなさん。こうした大きな展望をもって、「原発ゼロの日本」の一点での広大な国民的共同をつくりあげようではありませんか。(大きな拍手)

政治が大きく変わる歴史的前夜――日本共産党への入党を心から訴える

「二大政党」づくりの動きの行き詰まりと、 国民の中に起こっている変化

 今日は、“国民の変化と日本共産党”という角度から、さまざまな話をしてまいりましたが、最後に、国民の中に起こっている変化を、さらに大きな政治的流れの中で見てみたいと思います。

 財界が主導して2003年から本格的に開始された、いわゆる「二大政党」づくりの動きは、「自民か、民主か」の枠組みに国民を押しこめて、日本共産党を選択肢から排除する最強の反共作戦でした。この動きは、私たちにとって大きな逆風になり、選挙戦でも苦労が続きました。

 この「二大政党」づくりの動きの最大のピークは、いつだったか。2009年8月の総選挙で、他でもない念願の「政権交代」が実現した瞬間でした。このときに最大瞬間風速が(笑い)おきていた。この瞬間を大きな転機として、この動きはたちまち深刻な行き詰まりに突き当たりました。

 国民が「政権交代」に託したのは、自民党政治を変えてほしいということでした。しかし実際に起こったことは、まったく違いました。沖縄の米軍普天間基地問題、消費税増税問題、TPP(環太平洋連携協定)参加問題と、自民党政治と「同じ道」に戻ることでした。いまの国会をごらんなさい。不毛な党略的政争にあけくれる民主党と自民党の両党の姿に、国民はあきれかえっています。深い失望と怒りをつのらせていると私は思います。(大きな拍手)

 この反共作戦は、わずか2年という、支配勢力の思惑をこえるスピードで、その馬脚をあらわしました。国民の中に、これまでとは違う政治、新しい政治への探求の流れが生まれています。支配勢力が選択肢の外に置こうとした日本共産党の主張にこそ、政治の真実があるのではないか。こうした動きが、さまざまな分野で起こっています。

 3月11日の大震災と原発事故は、今、多くの人々に苦しみをもたらしています。同時にこの危機は、国民の中に生まれた変化の流れを加速する一大転機にもなりました。それは、国民の政治や社会への見方、その価値観、生き方についての大きな変化をもたらし、そのなかで日本共産党との共鳴が広がり、新しい共同がさまざまな分野で広がっているではありませんか。

 なぜ「政権交代」をしたのに、日本の政治は少しも変わらないのか。その根本には、米国・財界いいなりという日本の政治の「二つの異常」がある。このことを国民が見きわめ、閉塞(へいそく)打開の展望をつかむならば、日本の政治は大きく変わります。客観的には変わる歴史的前夜にあります(「そうだ」の声、拍手)。この大きな展望をもって奮闘しようではありませんか。(大きな拍手)

民間大企業の労働者のなかにも深い変化が起こっている

 国民の変化は、民間大企業で働く労働者の中にも深い形で起こっています。最近の二つの経験を紹介したいと思います。

 ある民間大企業で、反共差別支配に屈せず長年がんばってきた日本共産党員が定年を迎えました。そのさい、上司から「今日は存分にごあいさつしてください」(笑い)といわれました。そこで、自分の信念、生き方を次のように堂々と語ったといいます。「反共労務支配の厳しい差別のなかで自分の信念を曲げずに41年間生きてきました。出世とか給料が上がったとかということとは無縁の人生だったけれども、自分の良心を守りとおせました。人に恥じない生き方ができたと思っています。そういう意味では幸せだったし、子どもたちにも黙って自分の背中を堂々と見せられる、そういう生き方をまっとうできたと思います」(大きな拍手)。そうしますと翌日からあいさつをしてくれる人たちが増えた(笑い)。そして上司からこういわれたそうです。「あなたはぜひ職場に残ってほしい」(笑い)、「働き過ぎで心の病が後を絶たない。あなたには、広くみんなを見回して危ないなと思った人に声をかけてほしい。心の病にならないようケアしてほしい」(「すごい」の声、拍手)。上司の方も、日本共産党員の値打ちを認めざるを得なくなったわけですね。(拍手)

 もう一つ紹介します。別の民間企業の出来事ですが、ここでは毎年「模範従業員」の表彰が恒例行事になっているというんですね。今年は会社で「縁の下の力持ちとして役割を果たしていると評価できる人」について、従業員からのネット投票がおこなわれました。そうしたら、なんと第一組合で頑張っている日本共産党員が断トツの第1位となりました(大きな拍手)。会社から金一封をもらったそうです(笑い、拍手)。表彰を受けた方は、「さまざまな差別を受け排除されてきましたが、『いいかげんな仕事はしない』『仕事に穴を開けない』と心がけてきました。第二組合員からの相談にも真摯(しんし)に相談にのってきました」と語っています。

 みなさん。これまで差別・排除されながらがんばってきた日本共産党員が、多くの労働者から仕事への真剣な態度、信念をまげない生き方において尊敬され、会社からも「共産党員のあの人ならば労働者の心のケアをすることができるはずだ」と頼りにされる存在になっている(拍手)。変化は、民間大経営でも深いところで起こっているではありませんか。(大きな拍手)

危機をのりこえ新しい日本を――この大仕事にともにとりくもう

 私は、最後に訴えたい。

 いま国民の中に起こっている変化は、広く深いものであり、それは希望ある変化であります。しかし、それは自動的には日本社会の変革にはつながりません。日本共産党を大きくしてこそ、変革は現実のものになってまいります(「そうだ」の声、拍手)。さきほど、「歴史的前夜」と申しました。自然の夜明けは寝ていてもやってきますが(笑い)、社会の夜明けはみんなで力をあわさなければやってまいりません。(大きな拍手)

 今日の私の話に共感していただいた方は(笑い)、なかなかいいこというじゃないか(笑い)と、思っていただいた方は、どうか日本共産党に入党していただきたいと思います。(大きな拍手)

 「しんぶん赤旗」のご購読もお願いしたいと思います。外国特派員協会の講演のさいには、「どうして『しんぶん赤旗』はあんなスクープができるのか」という質問もあったんですよ。私は、草の根で国民の信頼を得ているからですとお答えしました。

 みなさん。日本共産党員としての生き方は、世間的な出世や栄達とは無縁のものかもしれません。共産党に入ってお金がもうかることもありません(笑い)。それぞれの力に応じて出費も(笑い)お願いしなければなりません(拍手)。しかし、みなさん。不当な圧迫に屈せず、自らの良心と信念を貫く生き方にこそ、ほんとうに人間らしい生き方があり、生きるにたる人生があり、そしてその中にこそ人間の真の幸福があると、私は信じるものであります。(大きな拍手)

 いま日本は、大震災と原発事故という危機のさなかにありますが、ともに手を携えてこの危機をのりこえるならば、その先には必ずや新しい日本が見えてくるでしょう。この大仕事を日本共産党員としてともにとりくもうではありませんか(大きな拍手)。そのことを最後に訴えまして、私の話を終わりにさせていただきます。(大きな拍手)

 日本共産党創立89周年万歳!(「万歳」の声と歓声、長く大きな拍手)